2011年06月21日
山尾三省 『原郷への道』 より その二
南無浄瑠璃光 樹木の薬師如来
われらの沈み悲しむ心を 祝わしたまえ
その立ち尽くす 青の姿に
われらもまた 静かに
深く立ち尽くすことを 学ばせたまえ
南無浄瑠璃光 風の薬師如来
われらの閉じた呼吸を
解き放ちたまえ
その深い 青の道すじに
解き放ちたまえ
2011年06月21日
山尾三省 『原郷への道』 より
京都府亀岡市国分寺の椋
森には森の時というものがある。
川には、川の時というものがある。
そして海には、やはり海の時というものがある。
これらのゆったりした時に比べると、
人間はいかにもあわただしい。
ただあわただしいだけでなく、
前へ前へと追われるように進むことにとらわれて、
人は実は帰る存在であることが見失われている。
天川神社 護摩焚きの時の空
森の時は、移り変わり進んでもゆくが、
それと同時に回帰し、動きながらもまるで動いていないように感じられる。
川の時、海の時も同じである。
赤目四十八滝付近にて
ある時から僕は、この時を学ぶこと、
この時において生きることの方が、
時代とともに前へ前へと進んでゆくことより
ずっと実のあることであることが分かってきた。
それで森の中の一本の木が森とともにあらざるを得ないように、
時代とともに僕もあらざるを得ないのではあるが、
進むのではなくて回帰することの方にむしろ意味と充実を見詰めるようになってきた。